2011年2月6日日曜日

春節休暇の奈良、京都


 先週の木、金(2/3,4)で奈良、京都に出かけてきた。目的は未来のプロジェクトの視察と仕込みだったのだが、訪問の際に最もインパクトがあったのは、寺社で多く出会った人たちだった。視察で出向いた東大寺の境内を埋め尽くしていたのは、東洋系の海外からの観光客だった。彼らの会話の言語から推察するに、中国の人たちが8割、残り2割ほどが韓国からといった構成だった。アングロサクソン系の外人や日本人は本当に少数派だ。

 お寺の駐車場で観光バスから降り、視察・観光する。楽しげに話し、一眼デジカメで写真を撮りながら歩く。ただ、その他のことはあまりしていない。参道で客を引く人力車の人たちは、あまり乗ってもらえないらしく、わざわざ日本人である我々に声をかける。確かに見ていると人力車も売店もあまり彼らにはアピールできていない。奈良の街中でもほとんど見かけない。バスに乗り観光地を移動し、宿舎に行く、その後は土産物を大阪市内等で買い、関空へ直行するのだろう。

 奈良の後の京都でも祇園の街中も同じ状態で、地場の店舗がその恩恵を受けている様には余り見えない。リピーターとしての来訪が増えればより多様な楽しみ方が見られる様になるかも知れないが、それまではまだまだ時間がかかるだろう。

大量の外国からの観光客が素通りするだけの場所。彼らの来訪を商売の機会として活かすには、受けて側の大きな意識の転換と知恵が必要だと感じた。

2010年9月1日水曜日

昨今のタブレット端末の新しさ

利用する気分が新しい端末

タッチパネルを備えたミニコンピューター。これはかなり古くからある。古くは自分も愛用していたAppleのNewton、そのスピンアウトで生まれたPalm Pilot、その後もWidowsのタブレット型のPC。タッチパネルで操作するコンピューター。これは決して新しいアイデアではない。もちろん、技術の進化で小型化・薄型化、高速化といった変化はある。ただ、機能的にはさほど変化していない。

だだ、最近生まれたiPhoneとiPadからその様子が少し変わってきた。マシンとしてのスゴサはあまりないが、使い勝手や使う側の気持ちが少しちがう。

画面の中の機能・役割を示すアイコンをさわってアプリを起動する。そのアプリの中に居るときは、まわりのアプリのことは考えない。何かをしていても他のアプリケーションの存在が頭から離れないPCとは大きく異なる。何をするか、何を期待しているのかが明確なまま、操作し情報をやりとりする。これがデジタルデバイスで実現したことが新しい。

何でもできる端末を超えた、使い心地と自然さ

電卓にはじまり、ワープロあたりまでは、デジタルデバイスは機能上の制約で単能型がほとんどだった。パソコンが出てくるとその機能進化とともに、多機能化が急激に進展した。携帯電話も通話のみの単能からメール、カメラ、インターネットブラウズとどんどんと多機能端末へと変化した。

機器が多機能化する中で、その多機能さ複雑さに対応できる人たちと、対応できない恐怖を抱く人に世の中がどんどん別れていった。いわゆるデジタルデバイドだ。

対して今、増殖中のiPhone、iPadはどうだろうか。適応力のある子供はともかく、高齢の方でもすぐに操作できることが多い様だ。1つにタッチパネルオペレーションが助けている、銀行ATMや駅の券売機でさわって操作することに馴れた人が大多数になっている。もう1つ大きな理由は、目的のアプリさえ起動できれば、選択肢も限られ、他のアプリに飛んで行くこともない単能型の環境だ。このわかりやすさと安心感はおそらくかつてのデジタルデバイスにはあまり無かったのではないだろうか。

単能でさわれるマシンが切り開く古くて新しい世界

太古から人間にすり込まれている思考回路や反応の仕方、それにより沿った新しいデジタルデバイス。その意味で、現在のiPhoneやiPadは新しいあり方と可能性を示しているのではないだろうか。本当に誰もがストレス少なく使えるデジタルデバイス。触れて、多機能を意識させたないデバイスこれが本当に社会を変える存在になるのはこれからなのだ。

2010年6月5日土曜日

上海雑感 その2


中国人と日本人の見た目の差異

スタッフパスを首から提げて万博会場に居ると色々な人からの質問を受ける。当然ながら大概は中国語で話しかけられる。ただ、立っている場所は日本館の前なので、日本語で声をかけられることも日に何度もある。

ただ、近づいてくる人が日本語で話しかけてくるかどうかは、その様子からはなかなか予測できなくなっている。なぜかと言えば、明かに中国の人とわかる人も居るが、表情や服装では判断のつかない人が実に増えている。反対に日本人でも中国の人の様な服装をしている人も多く、一瞥しただけではなかなかわからない。

4年前であれば、服装も化粧ももっと明かな差があったのだが、日本式のコーディネイトやメイクがかなり浸透し、バッグや靴といった服飾小物の差もかなり少ない。元々、衣料や服飾雑貨の多くは同じ工場で生産されたものだし、手に持っているコンパクトデジカメやデジタル一眼レフはほぼ同じものなのだ。

一眼デジカメ大ブーム

万博会場で印象的だったのが、デジタル一眼レフの最新モデルを持つ人の多さだった。全体に占める割合で言えば1割も居ない人数なのだろうが、その存在感は際立っていた。CanonやNikonといった日本ブランドの最新モデル。それもかなり良い大口径のレンズを付けている人が多い。持っている人の年齢層や性別も様々、明かに写真を趣味としてる年配の母と娘がどちらも最高級に近いレンズを付けて持ち歩いていた姿が印象的だった。一眼レフでない人たちも、最近モデルの日本ブランドのデジカメを皆持っている。こちらはほぼ100%に近い数字で、日本のデジカメメーカーは中国市場に随分と助けられている。

電気自動車づくし

万博会場内で目に付くのは多種・大量の電気自動車たちだ。会場内を巡回する大型バスから、スタッフの移送用のゴルフカートの親玉の様なモデル。ゴミ収集や掃除をする小型のモデル。公安のパトカーになっているセダンも電気自動車だ。どれもが会場を忙しく右往左往している、スペックで見ればおそらく航続距離は短いだろうし、大して速度も出ないが(実際シャトルバスは上り坂ではとても苦しそうに走っていた)、あの会場では使えてるし、一見だれもが満足している。日本の基準ではとても実用レベルとは言えないものばかりだとは思うが、このレベルでまず実用のスタンダードとするのか。少なくとも、日本的な自国製品に対する自虐あるいは謙遜的な視点や評価は存在しないかに見えた。

上海で学ぶ若者たちと韓流ブーム

今回のイベントでは運営のアルバイトに現地在住の日本人の大学生を採用したのだが、明るく前向きで、聡明な若者ばかりだった。話を聞いてみれば、W大学から上海の大学への1年間の交換留学のプログラムで来ている子を含め、皆、志を持って上海での生活を選んでいる若者ばかりなので、それもその筈。

その彼らから聞いたことに、今、韓流モノが流行っているという話題があった。これは、3年前のベトナムでもあった話で、TVでは韓流ドラマが放映され人気を博しているとのこと。

ただ、ちょっと意外だったのは、その流行の理由だ。韓国から直接輸入されてのブームではなく、日本で韓流ブームだったのが結果的に中国でのブームにつながっているとの説明だった。日本のトレンドが中国に対してまだまだ影響力を持っているということを、ちょっと屈折して確認した話題だった。

自信満々の中国大衆

毎日接していた中国の大衆は謙遜は知らないかに見える。みな堂々と自己主張する。あまりに自信満々なので、うっかりするとこちらに引け目がある様な錯覚を持ってしまう程だ。しかし、その裏打ちが有るとはあまり思えない。上げ潮経済による所得のうなぎ登りで、気分も上がっているのだろうが、それだけではないかも知れない。

子連れの家族を見ていると、その子どもは本当に溺愛されている。一人っ子政策が助長しているのか、親は子どもにやたらに甘い。他人が親の代わりに子ども叱ろうものなら大騒ぎになりそうな様子だ。子どもの殆どは見るからに“俺様状態”で、傍若無人だ。その振る舞いを見ていると、若者の自信満々の風情と似ている気もする。1980年代以降の生まれなら一人っ子政策世代とのことなので、もう30歳位になっている。1970年代以前生まれは経済的成長で自信を得、1980年代以降は一人っ子政策の影響で自信満々な態度。これが背景なのか?

中国品質は新興国中心の世界市場ではスタンダード

各国パビリオンも高級ホテルの造作も実にディテールはラフだ。一見は図面通りに作っている様だが、よく見ると本当に雑な仕事をしている。日本の感覚で言えば素人の仕事レベルの仕上げしか存在しない。いきなり普通の人間を連れてきて、誰かが指示して作れるレベル。それが中国の物づくりのスタンダードだ。

物づくり全般にわたって何事も表面的で低クオリティだが、実用に耐えない程でも無いし、あまり気にしている人も居ない。市場ではもちろん日本ブランドは人気で日本製であればさらに付加価値が付くと聞いている。ただ、それはあくまでも付加価値であり、なければその品質でも良い。

おそらくこれはどの新興国でも同じだろう。新しく大量消費を味わい始めた人々には、細かい品質のつめよりも消費できることの方が重要なのだ。新興国市場が世界経済での存在感を高め、そこへの商品供給が担うのもまた新興国であれば、そこでの品質基準はおそらくこれまでとは異なる。中国品質は新興国市場では充分な品質と実用性を持ち、どこかの製品と似ていることも問題ではなく、トレンドに乗れている証明でしかない。

その意味で、日本の物づくりの出番はどんどん減っている。それと並行して中国等の新興国の製品レベルが上がるので、その傾向は尚更だ。しっかりとした戦略を持ってマーケティングが行えないと、日本製品の居場所はどんどんと小さくなってしまうことを上海で思った。

2010年5月30日日曜日

上海雑感 その1


4年ぶりに5/23(日)から5/28(金)までの6日間、上海へ行ってきた。万博会場内、日本館のイベントスペースで環境省主催の映像と展示事業の立ち上げを確認するのが目的だった。連日、1万人程の中国全国から集まった人々と直接接し、また観察する中で多くの気づきと感想を持ったそのいくつかを書き留めておこうと思う。

上海の街の変貌

まずは、会場外の上海市街で感じた印象から。前回の訪問からはたった4年なのだが、その変化は10年分位に感じる程大きかった。

移動手段の変化

市内を走る自転車とスクーターが激減。自転車レーンが歩道側に設置されているが、その利用者は少ない。4年前は一般市民の移動手段としてまだまだ主導的な感じがあったが、現在はクルマ、バス、地下鉄の利用からこぼれた、最も低所得な人たちをだけの乗り物にといった印象だ。

対してクルマが大きく、キレイになっている。4年前の中核モデルだった、VWの旧パサートはタクシーでしか見ることはできない。そのタクシーも同じVWのトゥーランが新しく主流になっている。ともかくも、古いクルマが無くなり、この2~3年程度の新しく見栄えのするモデルに入れ替わっていた。

人・街・香りの変化

それぞれの街は独特に香りがある。上海にもその香りがあるのだが、今回はそれを感じる機会がとても減った。薄茶色の水道水と同じ、かび臭い様な、苔臭い様な感じに、クローブや八角といったスパイスの香りが混じった独特の香りだ。今回は万博が目的だったこともあり、宿舎を万博会場のある新興開発地域、浦東(ブードン)に取ったので、尚更の様だ。東京よりほこりっぽい感じはあるものの、独特の香りはさほど強く無く不思議だった。

ただ、この疑問は、タクシーで元々の中心街のある対岸、外灘(わいたん)側を走り抜ける時に解けた。再開発されてビルやマンションの建ち並ぶブロックには香りが無く、古くからの建物が密集するブロックを通過すると、上海独特の香りが漂ってくる。要は、新規に開発された地域は香りが薄く、街全体の香りが薄いのも、それだけ再開発されたエリアが増えていることを表している。超高層のオフィスビル、高級マンション群の街にはもはやかつての香りは無いのだ。

ソーシャルディスタンスが限りなくゼロに近い国

中国に来てびっくりするのは人がどんどん自分に近づいていくることだ。最初はスリかひったくりかとギョッとするが、そうではない。ただ、人に近づく、触れる・ぶつかることに無頓着なだけなのだ。万博で人気パビリオンの行列に並んでみるともっとよくわかる。日本人ならストレスに感じる距離より、はるかに近く触れあう状態でも全然気にしない。それに、何の前触れも無く話しかけてくる人がほとんどだ。人に話しかけることにも何の抵抗も無い。疑問は直ぐに聞く、主張は遠慮無くする。これは、ベトナムやタイといった近隣のアジア諸国ともちがう独特の個性だと思う。

中国人の並び方

日本人は並ぶのが好き、あるいは得意な民族だと思っていたが、中国人もなかなかだ。万博会場の一番の人気館、サウジアラビア館などは連日6時間を超える時間人々が並ぶ。ただ、その並び方は日本人とは大分ちがう。まず、お得意の大声での会話、どなる様な(というか声を控えるという意識がゼロ)音量でずっと話し続ける。同時に、まるのままのキュウリやカボチャの種や乾し肉のようなものを食べ続け、その食べかすを下にどんどんと落とす・捨てる。前に少しでも隙間があれば、どんどんまえに進み隙間を埋めてゆく。途中の柵を乗り越えられそうなら、警備員のスキを見てどんどん乗り越える。ともかくも、自分のペースというか、回りを気にしない、というか、自分の良い様、思う様に行動し続ける。並ぶことが目的化しがちな日本人とちがって、中国人にとって並ぶことは、欲望の表現としての行為なのかもしれない。

2010年5月5日水曜日

ソーシャルメディアとソーシャルフィルタリング

ソーシャルメディアで飯が食えるか
最近、仕事の中でソーシャルメディアが関連したことを考えることが増えている。確かにTwitter人口は無視できない規模まで増えてきた。とはいえ、まだまだ、一部のアーリーアダプターの人たちのためのサービスと言える。Twitterコミュニティの中ではその効果、新しさ、可能性は共有されているが、それはそれ、その中だけのこと。一番の問題はTwitter自体もまだ苦悶している様に、その事業化の道はまだ見いだされていない。Twitterマーケティングやビジネス活用を説いた本は大分増えてきたが、その内容は可能性論に近いものが殆ど。関わる人たちが経済的に成り立つエコシステムはまだ構築できているとは言えない。

ソーシャルフィルタリングの快適さ
一方、ソーシャルフィルタリングという概念がだんだんと一般化している。情報量が急激に増大する中、検索以上に効果的な情報の選別を行う方法論が注目されている。TwitterやFacebook等のソーシャルメディア上で提示されるニュース、意見は、自分が能動的に選別した人のフィルターを通して自分の前にやってくる。好む感性を持つある人の価値観、感性で選別された情報はノイズになる割合が低くとても快適なもの。

ソーシャルフィルタリングが生む情報偏食の可能性
自分がフォロー等を通して選別した人たちは、それぞれの情報ソースとしているウェブサイトやBlog、書籍等を見て、そこからニュースをピックアップしてくる。自分の好む感性の人が選んだ好ましい情報の中で暮らす。これは確かに快適。反面、口当たりの良いものだけを選ぶ、情報偏食に陥る可能性も秘めている。

検索中心からどこへシフトするのか
また、検索中心のウェブのあり方が変わる可能性も考られる。ソーシャルフィルタリングに頼ると情報を検索する機会は減る。検索経由の広告や検索ポータルサイトの利用頻度はおそらく下がって行く。インターネット上の経済においてもその川の流れが変わり、本流であった川が細り、あるいは涸れ川になる現象が見えるかもしれない。

快適は正義か?
快適さと快適の裏に潜む問題、そのどちらも意識して、バランスを考えて情報生活を送る必要がある。適当に快適で適当に不便。多様性が担保された情報環境・生活のありかたを維持するには快適だけに溺れない理性が必要なのだろう。

2010年4月26日月曜日

日本の輸出

輸出品の単価低下を取り上げた日経新聞の記事
2010/4/26付の日経済新聞朝刊で「アジア輸出 稼ぎにくく、汎用品中心、低い単価 」という記事を目にした。日本からの輸出品の平均単価が13%低下していることからこの様な表現になった様だ。

低単価化の理由はまだ不明確
ただ、この記事では平均単価が低下している事実を示しているだけで、その背景については語られていない。中国や韓国メーカーが評価を高める中で、日本の商品に対する評価が相対的に低くなっているのか、中国を中心とした新興市場では品質より価格が重視されているからより低価格の商品にシフトしているのか、その理由はこの記事だけからは分からない。

新興国市場で方向性を見失いかけているのか?
幸い、中国市場などでは日本製品に対する品質神話はまだ残っている様だが、日本ブランドで海外生産の場合は、そのアドバンテージはさほどでは無いだろう。中国や韓国のメーカーの品質・デザインが急激に向上する中、そこで、何で勝負するのかを明確にして臨まないと。単なる価格勝負に追い込まれていくことは目に見えている。

日本企業・ブランドの提示できる価値は?
問題は日本が長らく指向してきた“付加価値”が、その価値を揺るがしていることにある。“価値”とは何か? 新興市場における価値は何か? 日本の培ってきた価値がそこで価値を持つのか?をしばらく問い続ける必要がある。

2010年3月18日木曜日

グローバライゼーションが促進するコモディティ化と日本のものづくり

日本のものづくりへの危機感
最近、製造業を中心に様々な企業を訪問してお話を聞く機会をいただいている。その中であらためて感じているのは日本の製造業のアドバンテージがその価値を低めている点だ。消費の場も生産の場も中国を中心とした新興国に大きくシフトしている。中小を含む日本の製造メーカーの多くが、やむなく、生産拠点を海外にシフトしている。あるいは、日本国内生産にこだわるメーカーはその立脚点をどこに持てるかに苦慮している。

6・7分のモノが席巻する世界市場
中国等の新興国を中心とした市場拡大に、全世界が意識を集中している。少し前まで、コンピューター、薄型テレビといった電子機器は、その時代の先端的な技術をベースとして商品化されつづけてきた。しかし、今、多く求められているのは、その最先端ではなく、6割・7割の技術で実現される。安く、そこそこの製品たちだ。文句が出ない程度のクオリティ・デザインと買いやすい価格。そのバランスこそが競争力の源泉となっている。

しかし、その、レベルに於いて、日本企業のアドバンテージは殆ど無い。日本やヨーロッパから製造機器を購入して、安い人件費で製造すれば問題無く供給できるレベルのモノがその市場での主流派だ。対して、日本企業がアドバンテージを持てるのは、山の頂に近い七合目以上の部分での競争だ。しかし、市場の世界化はその領域を、相対的に矮小化してしまった。新興国の市場化によって、山のボリューム自体が拡大し、そこへの対応に世界中の企業と消費者の意識は注がれている。

コンピューター、薄型テレビ、自動車、半導体・・・・ 日本の得意分野だった市場が、グローバライゼーションの進展の中でどんどんとコモディティ化している、そして、中国や新興国のメーカーの得意領域となっている。

頂上技術・意識のマーケティングが必要
日本企業は海外に出て現地化する。その流れはもはや止められてない。しかし、日本ならではの強みをどこで担保するのか。日本の山の頂を目指す様な意識・技術と人材をどこで活用するのか。その展望と戦略が今問われている。先端的なものがその価値を弱める中、その価値を輝いて見せること、それを活かす場の定義・創造が求められている。アンチ・コモディティを実現するマーケティングの時代がこれからやってくる。