2010年5月5日水曜日

ソーシャルメディアとソーシャルフィルタリング

ソーシャルメディアで飯が食えるか
最近、仕事の中でソーシャルメディアが関連したことを考えることが増えている。確かにTwitter人口は無視できない規模まで増えてきた。とはいえ、まだまだ、一部のアーリーアダプターの人たちのためのサービスと言える。Twitterコミュニティの中ではその効果、新しさ、可能性は共有されているが、それはそれ、その中だけのこと。一番の問題はTwitter自体もまだ苦悶している様に、その事業化の道はまだ見いだされていない。Twitterマーケティングやビジネス活用を説いた本は大分増えてきたが、その内容は可能性論に近いものが殆ど。関わる人たちが経済的に成り立つエコシステムはまだ構築できているとは言えない。

ソーシャルフィルタリングの快適さ
一方、ソーシャルフィルタリングという概念がだんだんと一般化している。情報量が急激に増大する中、検索以上に効果的な情報の選別を行う方法論が注目されている。TwitterやFacebook等のソーシャルメディア上で提示されるニュース、意見は、自分が能動的に選別した人のフィルターを通して自分の前にやってくる。好む感性を持つある人の価値観、感性で選別された情報はノイズになる割合が低くとても快適なもの。

ソーシャルフィルタリングが生む情報偏食の可能性
自分がフォロー等を通して選別した人たちは、それぞれの情報ソースとしているウェブサイトやBlog、書籍等を見て、そこからニュースをピックアップしてくる。自分の好む感性の人が選んだ好ましい情報の中で暮らす。これは確かに快適。反面、口当たりの良いものだけを選ぶ、情報偏食に陥る可能性も秘めている。

検索中心からどこへシフトするのか
また、検索中心のウェブのあり方が変わる可能性も考られる。ソーシャルフィルタリングに頼ると情報を検索する機会は減る。検索経由の広告や検索ポータルサイトの利用頻度はおそらく下がって行く。インターネット上の経済においてもその川の流れが変わり、本流であった川が細り、あるいは涸れ川になる現象が見えるかもしれない。

快適は正義か?
快適さと快適の裏に潜む問題、そのどちらも意識して、バランスを考えて情報生活を送る必要がある。適当に快適で適当に不便。多様性が担保された情報環境・生活のありかたを維持するには快適だけに溺れない理性が必要なのだろう。

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